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東京家庭裁判所 昭和44年(家)6371号 審判 1974年8月09日

申立人 斉藤あや(仮名) 外一名

相手方 伊藤早苗(仮名) 外三名

主文

被相続人中村とめの遺産を次のとおり分割する。

(一)  別紙目録第一記載の土地を別紙図面のとおり分割し、同図面1、2、3、9、8、7、5、1を順次直線をもつて結ぶ範囲内(<A><B>と表示する部分)実測面積一三七・三八平方メートルを相手方中村幹男の、同図面3、4、13、12、9、3を順次直線をもつて結ぶ範囲内(<C>と表示する部分)実測面積一〇九・七二平方メートルを相手方中村誠の、同図面12、13、22、21、17、12を順次直線をもつて結ぶ範囲内(<D>と表示する部分)実測面積一一四・〇一平方メートルを相手方中村直樹の、同図面16、17、21、20、16を順次直線をもつて結ぶ範囲内(<E>と表示する部分)実測面積八三・七二平方メートルを相手方伊藤早苗の、同図面15、16、20、19、18、15を順次直線をもつて結ぶ範囲内(<F>と表示する部分)実測面積八三・七二平方メートルを申立人中村洋子の各取得とし、同図面5、7、8、9、12、17、16、15、18、14、10、6、5を順次直線をもつて結ぶ範囲内(<G>と表示する部分)実測面積八四・一一平方メートルを申立人中村洋子、相手方伊藤早苗、相手方中村幹男、相手方中村直樹、相手方中村誠の共有取得(持分各五分の一)とする。

(二)  別紙目録第二記載の建物を、申立人中村洋子、相手方伊藤早苗、相手方中村幹男、相手方中村直樹、相手方中村誠の共有取得(持分各五分の一)とする。

(三)  申立人斉藤あやに対し、申立人中村洋子は金一三九万九四四一円、相手方伊藤早苗は金六三万七五八九円、相手方中村幹男は金一三五万五三〇六円、相手方中村直樹は金三九二万七五七七円、相手方中村誠は金三七一万九六二九円およびそれぞれこれに対する本審判確定の翌日から支払ずみまで年五分の割合による金員の支払をせよ。

(四)  本件手続費用のうち鑑定人杉本治に給した金一〇万円および鑑定人橋本萬之に給した金一五万円は本件当事者らの平等負担とする。右費用は相手方中村直樹において金一六万六六六〇円、申立人中村洋子において金五万八三四〇円、申立人斉藤あやにおいて金二万五〇〇〇円をそれぞれ立替負担したものであるから、その償還として、申立人斉藤あやは申立人中村洋子に対し金一万六六七〇円を、相手方伊藤早苗、中村幹男、同中村誠は相手方中村直樹に対し、各金四万一六六五円の支払をせよ。

理由

以下摘示の事実は、特に証拠関係を掲記したところのほか、本件記録および審判移行前の当庁昭和四一年(家イ)第三五九三号遺産分割調停事件(当事者本件に同じ)記録および本件において提出収集された各証拠資料ならびに各当事者本人審問の結果に徴して認定したところである。

〔前提事実〕

本籍東京都台東区○○△丁目○○番地中村とめ(明治二四年七月二三日生)は昭和三八年一一月一三日東京都練馬区○○△丁日○○番地で死亡し、同人を被相続人とする相続が開始し、長女たる申立人斉藤あや、二女たる相手方伊藤早苗、長男たる相手方中村幹男、三女たる申立人中村洋子、二男たる相手方中村直樹、三男たる相手方中村誠の六名が、それぞれ法定相続分六分の一をもつて被相続人の遺産を共同相続した。この相続につき相続分の指定はなされていない。なお被相続人の配偶者中村義造(本件当事者らの父)は既に昭和三三年八月一〇日死亡しているから本件相続には関係がない。

被相続人の遺産は別紙目録記載および別紙図面表示の土地と建物(以下それぞれ「本件土地」「本件建物」という)であり、右土地上には遺産たる建物のほか、右図面表示のとおり相手方中村直樹所有の建物と同中村誠所有の建物とがあり、遺産たる本件建物には申立人中村洋子が居住し、中村直樹、中村誠所有の各建物には、それぞれの所有者が居住している。

〔本件の事実関係〕

当事者らの父中村義造(明治二二年一月一九日生)は明治四二~三年ころから東京市下谷区○○町○番地(改称前の被相続人の本籍地)において海産物問屋を営んでいたが、大正三年ころ、当時車地であつた本件土地(当時豊島都○○村、のち板橋区となり、更に練馬区に編入)を買い入れた。下谷の店舗は借家であつたが、大正一二年の関東大震災で焼失したので、地主から土地を買い受け、焼跡に家を建築して営業を続けた。本件当事者らは、いずれも右○○町で出生し、父義造、母とめに養育されて生長した。

昭和初年以降、義造の営業は不振となり、昭和七年ころ義造は営業を廃止して下谷の土地と店舗を売却するに至つた。そして債権者の追及を免れるため、本件土地を妻とめに譲渡し、昭和七年六月三日義造からとめへ同日付売買を原因とする所有権移転登記を経由したうえ、前記店舗の売却代金をもつて右土地上に本件建物を建築し、同じく妻とめに所有権を譲渡し、昭和九年二月六日とめの名義で所有権保存登記を経た。本件建物は古材を用いて建築したもので、二戸分を一戸にまとめ、中央に階段を取りつけた構造で、階下四室、階上四室である。そして一家は本件建物に移り住んだが、相手方早苗は右建物完成前の昭和七年九月に伊藤慎一郎と婚姻し、中野区の肩書住所に移つていたから、右建物に居住するには至らなかつた。下谷の店舗を処分してから本件建物が完成するまでの間、義造の一家は伊藤早苗方に同居した。

新居に移つてから義造はあひるを飼つたり、ソバのだしを作つてソバ屋へ卸したりしていたが、いずれもうまく行かず、生活は楽でなかつた。本件土地建物の登記簿謄本によると、右物件がとめの名義になつたのちも、昭和九年二月九日には株式会社東京府農工銀行のため金銭消費貸借契約に基づく債権二〇〇円の抵当権(連帯債務者中村義造)の認定登記がなされ(その後会社合併により債権者は日本勧業銀行となる)、昭和一三年一月二四日一部弁済により債権額を一八八円九五銭に変更する登記がなされ、昭和一七年九月一九日弁済による抵当権の抹消登記がなされている。なお右土地については、これよりさき昭和五年一〇月二三日、前同銀行のため金銭消費貸借契約に基づく債権四〇〇円の抵当権設定登記がなされ、昭和一三年一月二四日一部弁済により債権額を二八七円三四銭に変更する登記がなされ、同じく昭和一七年九月一九日弁済による抵当権の抹消登記がなされている。そして義造は昭和一八年に東京地方裁判所の廷吏となり、在職中の昭和三三年八月一〇日、六九歳で死亡した。

長女たる申立人あやは昭和三~四年ころ○○女子商業学校を卒業し、○○デパートに事務員として勤め、昭和一〇年に退職し、その後は父母のもとで家事手伝いをしていたが、同じく○○デパートに勤めていた斉藤弘との縁談も父の経済的破綻や斉藤側の事情からのびのびとなり、昭和一二年七月にようやく挙式して北区○○で世帯を持つた。同年一二月一三日婚姻の届出をし、そのころ葛飾区○○町の借家に転居し、昭和一四年八月八日長女秋子、昭和一五年一〇月八日長男保が、いずれも右葛飾区の家で生れた。その後、斉藤弘は実家の事情で郷里岩手県に帰ることになり、昭和一七年初めころ○○を退職し、○○電鉄に入社して盛岡市の同社社宅に入居し、あやは同年四月二五日実家(本件建物)で二女博子を出産してから盛岡市に移つた。弘は昭和二〇年初めころまでに○○電鉄を退職し、盛岡市○○△△番地に移り、一時盛岡市内の製鉄所に勤め、終戦後は同地においてベークライトの製造などを自営し、昭和二四年ころあやの肩書住所に移り、昭和二八年ころ前記営業を廃して岩手○○自動車株式会社に入社し、昭和四一年ころ定年退職、財団法人岩手○○振興会に入り現在に至つている。その間、昭和二〇年五月一四日三女裕子、昭和二三年一月一三日四女晶子、昭和二四年八月二六日五女米子が出生したが、三女裕子は昭和二五年一月三一日死亡した。

二女たる相手方早苗は小学校高等科卒業後、帝国女子専門学校附属の○○女学校家庭科三年に編入し、昭和五年三月同校卒業、刺繍店に勤めて刺繍の技術を修得するうち、刺繍の技術者である伊藤慎一郎と知り合い、昭和七年四月一〇日結婚式を挙げ、足立区○○町に借家して同居、同年九月二二日婚姻の届出を経た。同年一〇月中野区○○の借家に転じ、昭和八年二月六日長女吉子、昭和一二年七月一一日長男正人、昭和一四年八月二八日二男次男、昭和一五年一〇月二五日三男英俊が、それぞれ生れた。伊藤慎一郎は昭和二〇年五月一〇日召集により横須賀海兵団に入隊し、その間、同年五月二五日の空襲で被災した早苗は、子らを連れて本件建物に戻り、父母と同居した。慎一郎は同年一〇月に復員し、早苗と共に昭和二三年夏ころまで本件建物の一部に居住したが、その間、父母に部屋代を支払つたし、食事の面倒もかけなかつた。昭和二三年夏ころからは中野区○○の伯父(とめの兄)方へ間借して生活し、その後は中野区内の他の場所を経て、肩書住所の○○の借家へ移つたところ、昭和三〇年ころ家主から求められて、伊藤慎一郎が建物を買い受けた。その建物は大正一五年ころ建築した古いものであり、敷地は借地である。

長男たる相手方幹男は昭和九年三月に○○商業学校を卒業し、○○○デパート食堂部の依託経営をしていた○○精肉株式会社に勤め、昭和一四年三月に退職して同年四月新宿の○○建築科夜間部に入学し、同年九月昼間の勤務で海軍艦政本部に筆生として採用され、昭和一五年一〇月右学校を卒業、昭和一六年一月海軍を依願退職し、同三月宮内省○○寮○○部○○課に勤め、終戦による機構縮少で宮内省を退職、昭和二一年五月一日鉄道省○○地方建設本部に勤務し、昭和四七年三月三一日定年退職、同年四月から○○建設株式会社に入社、その子会社の○○不動産株式会社に出向している。現在、同会社技術課長であり、一級建築士でもある。同人の肩書住所地の住居は、昭和二六年ころ土地六〇坪くらいを坪当り一〇〇〇円で、住宅金融公庫の資金四二万円と勤務先の共済組合の融資金五万円により購入し、昭和二八年ころ右土地上に自己の設計施工により居宅を建築したものである。これより先、昭和二四年二月二四日妻富子と婚姻し、同年一〇月二四日長女典子、昭和二六年七月一三日長男薫が生れた。幹男は商業学校を卒業してから海軍に入るまでの間は相手方早苗方に下宿したり、会社の寮に住んだり、他に下宿したりしたが、海軍に入つてから昭和二六年ころ住居を新築するまでの間は本件建物で父母と同居していた。

三女たる申立人洋子は昭和七年ころ○○小学校高等科一年で中途退学し、当時世帯を持つたばかりの相手方伊藤早苗夫婦方に住み込んで刺繍の技術を習い、昭和一二年ころまで早苗方にいたが、申立人あやが斉藤弘と結婚して葛飾区○○町に世帯を持つや、あや方に同居して蔵前の刺繍店に勤めた。昭和一六年ころ斉藤夫婦が盛岡に移ることになつたので父母のもとに戻り本件建物に同居し、小石川や築地の刺繍店に通いで働いた。今次大戦となり、昭和一八年に父義造が裁判所に勤めるようになつた頃からは、自宅で内職的に刺繍の仕事を続け、軍の記章の製作などで身を立て、戦後は進駐軍の記章や土産品の刺繍を引き受けて収入を得、最近は家紋、帯、和服の模様などの刺繍で相当の収入を挙げている。父義造が死亡し、後記のとおり相手方直樹、同誠が居宅を建築してこれに移つてからは、本件建物に母とめと二人だけで住み、とめ死亡後は単身で右建物に居住し、後記のとおり、これを利用管理して現在に至つている。

二男たる相手方直樹は昭和一二年三月に高等小学校を卒業し、日本橋の呉服屋に住込みで六年半勤め、その間、昭和一八年四月に夜学の私立商業学校に入学したが、同年一〇月に中退し、○○陸軍造兵廠に勤めるうち昭和一九年三月陸軍に召集されて入隊、南方パレンバンで終戦となり、昭和二一年七月に復員し、父母のもとに帰還した。昭和二一年九月消防庁に入つて二六年余勤続し、現在は○○消防庁○○部○○課勤務、消防副士長である。昭和二八年六月一五日妻桂子と婚姻し、昭和二九年五月一五日長女梅子、昭和三二年一一月二二日二女光子をもうけ、引続き本件家屋に父母と同居していたが、昭和三五年初めころ、被相続人の承諾を得て本件土地上の東南側約三〇坪の部分(別紙図面<D>の部分)に建坪一二坪半の木造瓦葦平家建居宅を建築してこれに移り住んだ。右居宅は後記相手方誠の居宅とともに申立人幹男が設計施工したもので、ほぼ同一の構造である。建築費用は警察共済組合からの借入金一〇万円、住宅金融公庫融資金三〇万円、勤務先の信用組合からの借入金三〇万円をもつて賄つた。昭和四六年に右居宅を増改築して二階建とし(一階二〇坪、二階一二坪五合)、二階部分はアパートとし二世帯に賃貸している。

三男たる相手方誠は昭和一五年三月高等小学校を卒業し、一年間右学校の給仕として働いたのち昭和一六年四月参謀本部陸地測量部に勤め、終戦後は内務省に移り、現在はその後身である建設省○○○に勤務している。なお終戦後、勤務先が戦争中の疎開先である松本市から千葉市稲毛に移つたので、そのころ千葉○○短期大学法経科夜間部に入学、二年の課程を修了した。昭和三〇年一二月二七日妻英子と婚姻、江戸川区○○のアパートに二年間居住したのち、本件建物に暫時被相続人らと同居し、昭和三三年三月一六日長男節夫をもうけたが、昭和三五年に被相続人の承諾を得て本件土地上の東北側約三〇坪の部分(別紙図面<C>の部分)に、申立人幹男の設計施工により、前記直樹の居宅と同一構造の居宅を建築し、これに移り住んだ。建築費用は夫婦の共稼ぎによる貯金二〇万円、勤務先の共済組合からの借入一〇万円、東京都の助成金二六万円によつて賄つたが、四畳半と三畳の二間を学生に間貸しして、その間代は借入金の返済に充てた。昭和四〇年二月一九日二男功が生れた。

昭和三三年八月一〇日父義造が本件建物で死亡した当時、本件建物に居住していたのは、被相続人とめ、三女洋子、二男直樹夫婦とその間の長女梅子(当時四歳)、二女光子(当時〇歳)、三男誠夫婦であつたが、前記のとおり直樹、誠は昭和三五年に本件土地の一部に居宅を建築してこれに移り、本件建物には被相続人とめと三女洋子が残つた。義造の死亡による退職金等の四〇万円余は葬儀費、基石費に使い、その他香典から香典返しをした残りと合わせた残金三〇万円くらいは被相続人とめが取得した。三男誠が居宅を建築したのち被相続人とめが誠方に同居するとの案もあつたが、とめはこれに同意せず、本件建物の間貸しによる収入や、前記当事者らからの仕送りによつて生活を維持した。とめに対して一か月につき幹男が二〇〇〇円、あやを除く他の当事者らが一〇〇〇円ずつ位を渡し、本件建物の二階を学生に間貸しして一か月二五〇〇円程度の収入があつた。昭和三三年四月申立人あやの長男保が東京の学校に入学し、とめと同居したが、同年中に他に移つた。相手方誠夫婦は共稼ぎであつたから、新居に移るまでの間、その長男節夫の世話はとめと洋子がした。

被相続人とめは高血圧症で昭和三四年初めころにも一度倒れたことがあり、昭和三六年一一月と一二月の二か月間と昭和三七年六月と七月の二か月間、それぞれ新宿の鉄道病院に入院した。とめは幹男の扶養家族となつていたため幹男の健康保険で療養給付を受けたが、入院による付添費は幹男、直樹、誠が三等分して負担した。

昭和三八年一一月一三日とめが死亡し、その葬儀費等は同人の所持金で支弁したが、その後は申立人洋子が単身で本件建物に居住し、とめの在世中からいた間借人を引き続き居住させて間代収入を得、昭和三九年秋の台風で建物が破損したので、これを修理する機会に台所を改造し、階下をも間貸しできるようにして、多いときには四人の間借人を置いたほどである。台所の改造費その他電気工事等に昭和四一年中までに二五万円余を要したが、これは間代収入から逐次返済した。間代収入(一人一か月三〇〇〇円ないし五〇〇〇円)は昭和三八年一二月から昭和四三年七月までの累計で三四万八〇〇〇円になるが、これは電気・ガス・水道料こみの金額であるから実収はこれを下廻る。昭和四三年七月と八月には附近の某病院の改築のため事務所および看護婦室として二室を賃貸し、二万六〇〇〇円を得た。その後、本件建物の二階は老朽のため使用不能の状態であるが、階下の一部はなお間貸しを継続している。

本件土地の固定資産税等は直樹と誠がその使用部分の面積に相当する部分を負担し、残余の部分を洋子が負担して納入しており、本件建物の固定資産税等は洋子が負担して納入している。

〔調停申立後の経過〕

本件は三女洋子が長女あやと語らつて申立人となり、その余のきようだい達を相手方として昭和四一年七月二九日遺産分割調停(昭和四一年(家イ)第三五九三号事件)を申し立て、昭和四四年六月一三日までに二六回にわたり調停期日が開かれたが、合意に至らず、調停は不成立となり、本件審判手続に移行したものである。

右調停において申立人洋子は、自分は独身で子供もなく、若いころから本件土地建物を守り老父母の世話をしてきたので、本件土地を三〇坪ずつに六等分し、本件建物の存在する部分の三〇坪を自分が取得したい、右建物は既に老朽化し今にも崩壊しそうなので、これを取り壊すこととし、そのあとに自分の家を建てたい、と主張し、申立人あやも洋子の右主張を支持し、あや自身も、右洋子の取得部分と、相手方誠の建物の存在する部分との中間の部分三〇坪を分割取得したいと主張した。

その余の相手方らは本件土地を六筆に分割することは父母の遺した財産を分散し、結局は他人の手に渡すようなことになるから、当分の間は分割せずに、きようだいで管理することにしたい、仮に分割するとしても、申立人洋子が現に占有している場所は公道に面した最良の土地であるから、本件土地を単に面積の比率で六等分した三〇坪を洋子に取得させることは不当である、しかも洋子には資力がなく、その部分を取得しても家を建てることはできないから、今すぐ分割しないで本件建物を間貸しして間代を貯金し、三〇万円くらい貯金できたら、これを頭金として住宅金融公庫の融資を受け、相手方直樹、同誠と同じ方法で家を建てればよい、と主張し、双方の意見は平行線をたどるのみであつた。

当事者らは申立人側と相手方側との二派に分れ、対立が激化しているが、各人とも現状の生活はともかく安定しており、多少とも譲歩して早期の解決を得ようとする要因に乏しいこと、後記鑑定にも現われているように本件土地附近を通る地下鉄の計画もあり、将来の発展性が見込まれ、地価高騰が見られることが、各人の譲歩妥協を困難にした。土地取得の意欲が強いことは、盛岡市に居住する申立人あやについても同じであるが、相手方幹男も、長男薫が大学を卒業したし、いずれ独立した住所を必要とするとして本件土地の取得を望み、相手方伊藤早苗も同様の趣旨で土地の取得を望んでいる。

そして相手方幹男は次のとおり相続財産の維持増加に寄与したと主張し、他の共同相続人よりも多くの遺産の分配を希望している。すなわち、本件土地建物には昭和九年二月九日中村義造およびとめを連帯債務者として債権者株式会社東京府農工銀行のため債権額二〇〇円の抵当権が設定されており、昭和一三年に債権者から抵当権実行の通知がなされたので、幹男において元利金一〇〇円(右土地建物の時価三〇〇円の三分の一に当る)を第三者弁済して残債務の返済条件を変更して貰い、その競売を免れることをえて右遺産の維持に寄与したこと、終戦後、本件土地の存する地域で区画整理組合が結成され、その施工を練馬区○○土地区画整理組合(第一工区)が担当したが、当時中村義造において菜園として利用していた本件土地のうち二〇坪が減歩される計画であつたところを、幹男において同組合と交渉のうえ代償金四〇〇〇円を納入して減歩分と同面積の換地を取得し、地形は変更されたが従前と同一の地積を確保し合わせて右土地全部の地目を宅地に変更することができたこと、以上の寄与は前者に関し土地の三分の一、後者に関し二〇坪の三分の二、すなわち六〇八・六四平方メートルのうち二四六・九五七平方メートルであるから、土地の四割に相当する部分は寄与分として達雄の取得とされるべきである、というのである。

(当裁判所の判断)

共同相続人のうち一人が相続財産の維持増加に寄与した場合(被相続人を扶養することによる寄与を含む)、遺産分割に際し、その者に他の共同相続人よりも多くの分配をすることができるか、については、その共同相続人が配偶者であるときは、夫婦の協力扶助義務や特別の法定相続分の規定等から、特段の事情のないかぎり考慮する必要はないと考えられるが、当該共同相続人が直系卑属である場合には、民法九〇六条により、寄与分を相続分に織り込んで、その者の相続分を増やすことができると解すべきである。もとより民法九〇三条の場合と異なり、当該共同相続人の寄与により維持増加された部分の遺産が、すべて当該共同相続人に分配されるべきものでないことは、その寄与も親族の扶け合い義務(民法七三〇条)または扶養義務(民法八七七条)の一環として行われるものであることから明らかである。

本件において、これを見るに、先ず前示のとおりの本件土地建物の登記簿謄本に記載されている抵当権の設定、変更、消滅の事実と証人伊藤慎一郎の証言および相手方幹男審問の結果を総合すると、相手方幹男主張のとおり昭和一三年一月ころ債権者株式会社日本勧業銀行から抵当権の実行通知を受け、その頃同相手方が○○精肉株式会社に勤務中に貯えた金一〇〇円を滞納元利金の一部として同銀行に弁済して競売の実行をまぬがれたことが認められる。なお相手方幹男審問の結果によれば、その後、被相続人義造は焼とうもろこしの販売を新宿で始め、売上げが順調であつたため、残余の債務は昭和一七年九月ころまでに完済し、抵当権も消滅したものであることが認められる。

また当庁家庭裁判所調査官藤本和男の昭和四七年八月一五日付調査報告書およびこれに添付された東京都市街地開発事業一覧表、本件土地の登記簿(不動産登記法二四条の規定により処分した移記済の用紙)謄本、証人伊藤慎一郎の証言および相手方幹男、同直樹各審問の結果を総合すると、本件土地は、もと「畑四畝二五歩外一畝一歩畦畔」であつたが、被相続人義造がこれを買い受けたのち昭和九年にうち一八歩を分割して他に譲歩したため、「畑五畝八歩内畦畔一畝一歩」となつたが、昭和二八年四月二四日区画整理確定図第二一号に基づく実測により「宅地一八五坪九合八勺」となつたものであること、右区画整理は○○町○○区画整理組合(昭和一三年一月一〇日設立認可、昭和二七年九月一一日換地処分告示、昭和二九年一一月二八日解散)によつて行われたものであり、当時、相手方幹男が区画整理による調整金四〇〇〇円を同組合に納付したことが認められる。

以上は相手方幹男の寄与と認めうる。

更に各相続人についての寄与分を検討する。

前示のとおり被相続人義造は昭昭一八年に○○地方裁判所の廷吏となり昭和三三年八月一〇日死亡するまで在職したから、その間、本件当事者らが義造やその妻とめを扶養する必要はなかつた(葬儀費は裁判所共済組合から給付されるし、退職一時金および遺族年金の支給もあるから、差し当りとめが生活に窮することはなかつた筈である)。

前記のとおり昭和三五年に相手方直樹、同誠が本件土地にそれぞれ住宅を建ててこれに移り住んでからは、本件建物にとめと申立人洋子とが残つたのであるが、とめは階下南側の六畳に、洋子は階下北側の三畳と四畳半に住んで炊事も別々にしていた。しかし、昭和三六年にとめが入院する前後から洋子がとめの食事や身の廻りの世話をすることになり、そのころから前示の分担金は洋子は負担しないことになつた。とめは二度目の入院後、退院してからは鉄道病院に通院し、その場合主として伊藤早苗が付き添つて行つたが、逐次通院も困難となり、近隣の医師の往診を受けるようになつた。そのほかマッサージを受けたりして医療費もかさみ、あや、洋子を除く各当事者らの負担金も逐次増額された。昭和三八年二月には洋子はとめのためにテレビを買つてやつた。昭和三八年八月にはとめは立上る力もなく歩くこともできなくなつた。そのころあやが上京して一〇日ばかり看病にあたつた。そして下の始末もしてやらねばならず、洋子がこのことの不満を同一土地内に住む相手方直樹、同誠の妻らや相手方早苗に訴え、当事者間の対立を深める結果となつたが、翌月から同胞らが交替でとめの世話をしようという話合いをしているうち同年一一月一三日とめは容態が悪化して死亡した。

以上を総合して考察すると、本件当事者らのうち、上の三人は一家の経済状態の安定している時期に成育し、それぞれ相当の教育を受けたが、下の三人は、いずれも小学校卒業後、努力して自己の途を切り開いている。相手方幹男は旧制度のもとにおける法定推定家督相続人として、よく父母や弟妹らの面倒を見たうえ今日の地位を築いた篤行の士であるが、他の当事者らも、それなりに被相続人の世話をし、ひいては遺産の維持に貢献していると言える。相手方洋子は未だに独身で経済的にも恵まれていないが、最後まで被相続人と生活を共にし、その死後も本件建物に居住してその維持管理に当つたことは、同時に居住の利益を得たとしても寄与は認められなければならない。他の当事者らが洋子に対し本件建物への居住や第三者への一部賃貸を認めたことは、恵まれない洋子への事実上の扶助として評価すべきである。そうだとすれば相続開始後審判時までの洋子の本件建物への居住および賃貸による利益はこれを評価して分割すべき遺産の価額に算入することは相当でないから、本件遺産分割に当つてはこれを評価外とすることが相当である。しかしながら幹男の本件土地の維持についての寄与分は、同人の経済的地位に応じた扶助義務の履行部分とを併せ評価したうえ、これを土地価額の一割と評価することが相当である。

以上を前提として本件土地の分割を検討するに、前示のとおり本件土地の南東側<D>の部分一一四・〇一平方メートルに相手方直樹が、北東側<C>の部分一〇九・七二平方メートルに相手方誠が、それぞれ居宅を建築所有しているから、それぞれ右敷地部分を同人らに取得させることが相当であり、その余の部分を宅地として分割する場合、建築基準法に則り幅員四メートルの道路(<G>の部分)を設定したうえ別紙図面のとおり分割することが相当である。すなわち、本件土地の南側が第三者所有の宅地に接しており、この宅地には建物が建築されているため、右の道路の南側となる画地は日照に関し建築上の制約を生ずるのに対し、道路の北側となる画地はその制約が少なくなるから、右道路の中心線は本件土地の東西の中心線より五〇センチメートルだけ北側にずらせた位置に設定することが相当である。そして右道路の西側公道に面する部分に左右二メートルずつの隅切りを付することにする。この場合、<E><F>画地の面積は一六七・四四平方メートル、<A><B>画地の面積は一三七・三八平方メートルとなる。そして<G>の道路の部分を除き、<A><B><C><D><E><F>の画地部分の面積合計は五二八・五五平方メートルであるが、その一割五二・八六平方メートルを幹男の寄与分と見るとき、残りの面積四七五・六九平方メートルの六分の一は七九・二八平方メートルとなり、これに右寄与分五二・八六平方メートルを加えた一三二・一四平方メートルが幹男の取得となるべき面積である。これは前記<A><B>画地の面積にほぼ等しい。そこで<A><B>画地を相手方幹男に取得させるべきものとする。更に<E><F>画地をその余の当事者らに分割するとすれば甚だしく狭少となり、宅地としての利用価値を著しく損うことになるし、申立人あやは盛岡市に本籍住所を有する者であつて、特に本件土地自体を現場で取得させる必要性に乏しいから、同人には金銭をもつて補償することを相当と認める。そうすると、諸般の事情を考慮し、<E>画地を相手方伊藤早苗、<F>画地を申立人洋子に、それぞれ取得させることが相当である。

次に本件建物については、検証の結果によれば、右建物は、もともと古家の解体材によつて昭和七年に建築されたもので、すでに朽廃状態に近く、本件各当事者らも近々のうちにこれを取り毀し解体するほかないものと認めている。よつてその価額を零と算定し、これを申立人あやを除く本件各当事者の共有(持分の割合は五分の一ずつ)と定めることにする。

以上のように分割したうえ、申立人斉藤あやを除く各当事者の取得すべき部分の価額に応じ、その本来の具体的相続分との差額を斉藤あやに対する債務負担によつて調整すべきである。鑑定人杉本治、同橋本萬之の各鑑定の結果を総合すると、昭和四九年七月における右各画地の更地価格は、<A>地九八四万三二七七円(平方メートル当り一四万三三〇〇円)、<B>地九二一万八一九八円(平方メートル当り一三万四二〇〇円)<A>地<B>地を一括する場合一九〇六万一四七五円(平方メートル当り一三万八七五〇円)、<C>地一四〇六万六一〇四円(平方メートル当り一二万八二〇〇円)、<D>地一四二七万四〇五二円(平方メートル当り一二万五二〇〇円)、<E>地一〇九八万四〇六四円(平方メートル当り一三万一二〇〇円)、<F>地一一七四万五、九一六円(平方メートル当り一四万〇三〇〇円)、<G>地(私道)三四六万五三三二円(平方メートル当り四万一二〇〇円)であることが認められる。この場合、<C>地<D>地に相手方誠、同直樹の居宅が存在することにより、右各土地について借地権価格ないし使用借地権価格を考える必要はない。何となれば右土地の使用許諾が同人らに対する被相続人からの特別受益であるとしても、その価額は民法九〇三条により同人らの相続分に加算され、右土地を同人らが取得する場合の控除額と相等しくなり、結局同人らは<C><D>両土地を更地として取得する場合と同じだからである。しかして<A><B><C><D><E><F><G>各画地の価額合計は七、三五九万六九四三円となるが、そのうち相手方幹男の寄与分(一割)七三五万九六九四円を控除した残額は六六二三万七二四九円となり、これを六等分したそれぞれ一一〇三万九五四一円が、幹男を除く本件各当事者の具体的相続分であつて、幹男の具体的相続分はこれに寄与分を加えた一八三九万九二三五円となる。

そして<G>土地は共通の私道として申立人あやを除く本件各当事者らの各五分の一の持分による共有とするとき、<G>土地の価格三四六万五三三二円につき右各当事者の取得する価額は六九万三〇六六円ずつである。また<A><B>土地を相手方幹男の取得とするとき、<A><B>土地の価額は一九〇六万一四七五円であるから、これに<G>土地の五分の一の価額六九万三〇六六円を加えると一九七五万四五四一円となり、幹男の具体的相続分一八三九万九二三五円を一三五万五三〇六円超過することになる。同様に<C>地を相手方誠、<D>地を相手方直樹の取得とするとき、<C>地の価額は一四〇六万六一〇四円、<D>地の価額は一四二七万四、〇五二円であるから、更にこれに<G>地の五分の一の価額六九万三〇六六円をそれぞれ加え、各自の具体的相続分一一〇三万九五四一円を差し引くと、誠は三七一万九六二九円、直樹は三九二万七五七七円だけ、それぞれ相続分を超えて取得することになる。そして<E>地を相手方伊藤早苗、<F>土地を申立人洋子の取得とするとき、<E>地の価額は一〇九八万四〇六四円、<F>地の価額は一一七四万五九一六円であるから、更にこれに<G>地の五分の一の価額六九万三〇六六円をそれぞれ加え、各自の具体的相続分一一〇三万九五四一円を差し引くと伊藤早苗は六三万七五八九円、洋子は一三九万九四四一円だけ、それぞれ相続分を超えて取得することになる。

かくて申立人あやを除くその余の当事者らは、それぞれ右に示すとおり具体的相続分を超えて取得する価額分を遺産分割調整金として申立人あやに支払うべきである。すなわち申立人洋子は一三九万九四四一円、相手方伊藤早苗は六三万七五八九円、相手方幹男は一三五万五三〇六円、相手方直樹は三九二万七五七七円、相手方誠は三七一万九六二九円を、それぞれ申立人あやに支払うべく、これについては本審判確定の日から支払ずみまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金を付すべきである。

よつて手続費用の負担につき家事審判法第七条、非訟事件手続法第二七条を適用し、主文のとおり審判する。

(家事審判官 田中恒朗)

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